Tyrrell [1970〜1998]

<F1通算成績>
参戦期間:1970年第11戦カナダGP〜1998年最終戦日本GP(29シーズン)
勝利数:23勝
コンストラクターズタイトル:1回(1971)
ドライバーズタイトル:2回(1971・1973)

元レーシングドライバーのケン・ティレルが設立したジュニアフォーミュラチーム「ティレル・レーシング」が前身。

ケン・ティレルは1968年に発足したマトラ・フォードの監督としてF1に初参戦、翌年にダブルタイトルを獲得しますが、マトラがフォードとの関係を断ったため、1970年から自身のチーム「ティレル・レーシング」でコンストラクターとして参戦します。

1970年代の日本では「タイレル」と表記されていて、1976年に日本で初めてF1が開催された際、マシンには「たいれる」とひらがなでロゴが掲げられていました。

1990年代にはホンダやヤマハのエンジンを搭載し、中嶋悟や片山右京が在籍した日本との関わりが深いチームでしたが、資金難から1998年シーズン前に買収され、翌1999年からはB.A.R.(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)に移行します。
この買収は参戦権確保を主目的としたものだったため、一部の人材を除いてチームの資産は引き継がれず、ケン・ティレルが設立したチームは事実上消滅しました。

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<1970年シーズン(全13戦)>
マシン:マーチ701,001  エンジン:フォード
勝利数:0勝(マーチ701で1勝)  コンストラクターズ:-
ドライバー:ジャッキー・スチュワート(5位)、ジョニー・セルボ・ギャバン(21位)、
      フランソワ・セベール(22位)

参戦当初はマーチのマシンを使用、スチュワートが1勝を含む4度の表彰台を獲得します。
第11戦カナダGPから極秘に開発していたオリジナルマシン001を投入、いきなりポールポジションを獲得する速さを見せ、次戦アメリカGPでもレースをリード、マシントラブルでリタイアとなりましたが、周囲を驚かせる活躍を見せました。

<1971年シーズン(全11戦)>
マシン:001,002,003  エンジン:フォード
勝利数:7勝  コンストラクターズ:1位
ドライバー:ジャッキー・スチュワート(1位,6勝)、フランソワ・セベール(3位,1勝)

開幕戦2位、第2戦から2連勝、第5戦から3連勝とスチュワートがタイトル争いを独走、2戦連続リタイアの後、第10戦で6勝目を上げると、最終戦ではセベールが初優勝。
ティレルはオリジナルマシンを本格投入した初年度でダブルタイトルを獲得しました。

<1972年シーズン(全12戦)>
マシン:002,003,004,005,006  エンジン:フォード
勝利数:4勝  コンストラクターズ:2位
ドライバー:ジャッキー・スチュワート(2位,4勝)、フランソワ・セベール(6位)

開幕戦アルゼンチンGPでスチュワートが優勝し、幸先良いスタートを切りますが、第2戦以降はロータスのフィッティパルディが連続表彰台でタイトル争いを独走、スチュワートは4勝を上げたもののランキング2位に終わりました。

<1973年シーズン(全15戦)>
マシン:005,006  エンジン:フォード
勝利数:5勝  コンストラクターズ:2位
ドライバー:ジャッキー・スチュワート(1位,5勝)、フランソワ・セベール(4位)

前年に続き、ロータスのフィッティパルディが開幕から3勝を含む6連続表彰台でタイトル争いをリード、スチュワートも同じく3勝を上げて追走します。
中盤戦以降もポイントを積み上げたスチュワートに対し、フィッティパルディは急激に失速、代わってロータスのピーターソンが調子を上げ、タイトル争いはこの3人に絞られますが、セベールのサポートもあって5勝を上げたスチュワートがタイトルを獲得しました。
しかし、最終戦アメリカGPの予選でセベールが事故死、チームは決勝の出走を取りやめ、コンストラクターズタイトルはロータスに明け渡しました。

<1974年シーズン(全15戦)>
マシン:005,006,007  エンジン:フォード
勝利数:2勝  コンストラクターズ:3位
ドライバー:ジョディ・シェクター(3位,2勝)、パトリック・デパイユ(9位)

スチュワートが引退し、シェクターとデパイユが加入。
ドライバーが一新されたこともあって前年までの勢いを失い、タイトルはマクラーレンとフェラーリの間で争われます。
シェクターが2勝を上げてランキング3位を獲得したものの、コンストラクターズ3位に終わりました。

<1975年シーズン(全14戦)>
マシン:007  エンジン:フォード
勝利数:1勝  コンストラクターズ:5位
ドライバー:ジョディ・シェクター(7位,1勝)、パトリック・デパイユ(9位)

第3戦南アフリカGPでダブル表彰台(シェクター優勝、デパイユ3位)を獲得、以降はシェクターが2度の表彰台を獲得するに留まり、コンストラクターズ5位とさらに低迷しました。

<1976年シーズン(全16戦)>
マシン:007,P34  エンジン:フォード
勝利数:1勝  コンストラクターズ:3位
ドライバー:ジョディ・シェクター(3位,1勝)、パトリック・デパイユ(4位)

第4戦スペインGPからデパイユに、第5戦ベルギーGPからシェクターにも6輪車のP34が投入され、第6戦モナコGPでダブル表彰台を獲得すると、次戦スウェーデンGPで1-2フィニッシュ(シェクター優勝、デパイユ2位)を達成。
優勝はこの1回のみながら、表彰台12回と安定した成績を残し、タイトルを争ったハント(マクラーレン)とラウダ(フェラーリ)に次ぐ3位と4位を獲得、コンストラクターズでも3位まで復調しました。
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Tyrrell P34

<1977年シーズン(全17戦)>
マシン:P34,P34/2  エンジン:フォード
勝利数:0勝(最高位2位)  コンストラクターズ:6位
ドライバー:パトリック・デパイユ(9位)、ロニー・ピーターソン(14位)

シェクターがウルフへ移籍し、マーチからピーターソンが加入。
フルカウル仕様のP34/2を投入しますが、小径タイヤの開発がストップしたこともあってチーム初の未勝利のシーズンとなり、再びコンストラクターズ6位と低迷、6輪車はこのシーズン限りで姿を消しました。
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Tyrrell P34/2

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Tyrrell P34

<1978年シーズン(全16戦)>
マシン:008  エンジン:フォード
勝利数:1勝  コンストラクターズ:4位
ドライバー:パトリック・デパイユ(5位,1勝)、ディディエ・ピローニ(15位)

ピーターソンはわずか1年でチームを離れ、ピローニが加入。
オーソドックスな4輪の008を開幕戦から投入、デパイユが1勝を含む5度の表彰台でランキング5位を獲得しましたが、ピローニは15位と大きな差を付けられてしまいました。
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Tyrrell 008

<1979年シーズン(全15戦)>
マシン:009  エンジン:フォード
勝利数:0勝(最高位3位)  コンストラクターズ:5位
ドライバー:ディディエ・ピローニ(10位)、ジャン・ピエール・ジャリエ(11位)

デパイユがリジェへ移籍し、ジャリエが加入。
開幕戦からチーム初のグランドエフェクトカー009を投入しましたが、前年限りでエルフとシティコープがスポンサーを降りたこととデパイユの離脱でマシン開発も進まず、4度の3位表彰台獲得に留まりました。

<1980年シーズン(全14戦)>
マシン:009,010  エンジン:フォード
勝利数:0勝(最高位4位)  コンストラクターズ:6位
ドライバー:デレック・デイリー(12位)、ジャン・ピエール・ジャリエ(13位)

ピローニがリジェへ移籍し、前年の終盤戦で3台目を走らせたデイリーが昇格。
今季は参戦11年目にして初めて表彰台にも登れないシーズンとなり、ドライバーラインナップは一新されることになりました。

<1981年シーズン(全15戦)>
マシン:010,011  エンジン:フォード
勝利数:0勝(最高位4位)  コンストラクターズ:10位
ドライバー:エディ・チーバー(12位)、ミケーレ・アルボレート、リカルド・ズニーノ

チーバーをエースとして迎え、2台目はコーガン、ズニーノ、アルボレートとドライバーを変更。
今季も表彰台には登れず、入賞はチーバーの5回のみでコンストラクターズ10位に終わりました。

<1982年シーズン(全15戦)>
マシン:011  エンジン:フォード
勝利数:1勝  コンストラクターズ:6位
ドライバー:ミケーレ・アルボレート(8位,1勝)、ブライアン・ヘントン、
      スリム・ボルグッド

チーバーがリジェへ移籍し、第3戦まではボルグッド、第4戦以降はヘントンがドライブ。
F1参戦2年目にしてエースとなったアルボレートは第2戦ブラジルGPで4位初入賞を果たすと、第5戦サンマリノGPで3位初表彰台を獲得、そして最終戦ラスベガスGPで初優勝を果たしました。

<1983年シーズン(全15戦)>
マシン:011,012  エンジン:フォード
勝利数:1勝  コンストラクターズ:7位
ドライバー:ミケーレ・アルボレート(12位,1勝)、ダニー・サリバン(17位)

ヘントンに代わってサリバンが加入。
第7戦デトロイトGPでアルボレートが通算2勝目を上げますが、チームの入賞はこれを含めてわずか3回と再び低迷、結果的にこの優勝がチームにとって最後の勝利となりました。
アルボレートは活躍を認められてフェラーリドライバーに抜擢されました。

<1984年シーズン(全16戦)>
マシン:012  エンジン:フォード
勝利数:0勝(-)  コンストラクターズ:-
ドライバー:マーティン・ブランドル、ステファン・ベロフ、
      ステファン・ヨハンソン、マイク・サックウェル

ブランドルとベロフの新人を抜擢、第6戦モナコGPでベロフが3位、第8戦アメリカ東GPでブランドルが2位に入りますが、レース後の車検で「水タンク事件」が発覚し、今季のチームとドライバーのポイント・記録がすべて剥奪されてしまいました。

<1985年シーズン(全16戦)>
マシン:012,014  エンジン:フォード,ルノー
勝利数:0勝(最高位4位)  コンストラクターズ:9位
ドライバー:ステファン・ベロフ(16位)、イヴァン・カペリ(18位)、
      マーティン・ブランドル、ステファン・ヨハンソン

他チームがターボエンジンに移行する中、チームはフォードNAエンジンを使い続けていましたが、シーズン途中からルノーターボエンジンを搭載した014を投入。
ベロフがF1と並行して参戦していたWECでのクラッシュで他界、代役で終盤2戦にスポット参戦したカペリが最終戦オーストラリアGPで4位初入賞を果たしました。

<1986年シーズン(全16戦)>
マシン:014,015  エンジン:ルノー
勝利数:0勝(最高位4位)  コンストラクターズ:7位
ドライバー:マーティン・ブランドル(11位)、フィリップ・ストレイフ(14位)

前年、ベロフの代役で1戦だけ参戦したストレイフをレギュラーに抜擢、ブランドルとのコンビで最終戦まで戦いますが、最終戦オーストラリアGPでブランドルが記録した4位が最高位でした。

<1987年シーズン(全16戦)>
マシン:DG016  エンジン:フォード
勝利数:0勝(最高位4位)  コンストラクターズ:6位
ドライバー:ジョナサン・パーマー(11位)、フィリップ・ストレイフ(15位)

ブランドルがザクスピードへ移籍し、入れ替わりでパーマーが加入、88年いっぱいでターボが禁止されることを見越してフォードNAエンジンにスイッチしました。
ターボ車との性能差が大きすぎることから、チャンピオンシップとは別にNAエンジン車を対象としたタイトルが今季のみ設定され、ジム・クラーク・トロフィー(ドライバーズタイトル)ではパーマーが1位、ストレイフが2位を獲得、コーリン・チャップマン・トロフィー(コンストラクターズタイトル)では1位を獲得しました。
といっても、わずか4チーム5台での争いですが・・・。

<1988年シーズン(全16戦)>
マシン:017  エンジン:フォード
勝利数:0勝(最高位5位)  コンストラクターズ:8位
ドライバー:ジョナサン・パーマー(14位)、ジュリアン・ベイリー

ストレイフがAGSへ移籍し、ベイリーがF1デビュー。
3度の入賞を果たしたパーマーも2度の予選落ちを喫し、ベイリーは予選落ち10回でノーポイントに終わりました。

<1989年シーズン(全16戦)>
マシン:017B,018  エンジン:フォード
勝利数:0勝(最高位3位)  コンストラクターズ:5位
ドライバー:ジャン・アレジ(9位)、ミケーレ・アルボレート(13位)、
      ジョニー・ハーバート(14位)、ジョナサン・パーマー(25位)

ベイリーが1年でシートを失い、フェラーリからアルボレートが復帰。
全車NAエンジンとなり、第4戦メキシコGPでアルボレートがチームに久々の3位表彰台をもたらしましたが、第7戦フランスGPからキャメルがスポンサーとなったため、マルボロの支援を受けていたアルボレートが離脱。
代わって国際F3000参戦中のアレジを起用、デビュー戦で4位入賞すると、計3度の入賞を果たしました。

<1990年シーズン(全16戦)>
マシン:018,019  エンジン:フォード
勝利数:0勝(最高位2位)  コンストラクターズ:5位
ドライバー:ジャン・アレジ(9位)、中嶋悟(15位)

アレジがフル参戦し、ロータスから中嶋が加入。
開幕戦アメリカGPでアレジがチャンピオンのセナとバトルを繰り広げていきなり2位初表彰台を獲得、中嶋も6位入賞を果たしました。
第3戦サンマリノGPからはF1初のハイノーズマシン019を投入すると、アレジは第4戦モナコGPで2度目の2位表彰台を獲得、一躍トップドライバーの仲間入りを果たしました。
来季の移籍交渉でアレジはウィリアムズと仮契約しましたが、憧れのフェラーリからもオファーを受け、フェラーリがウィリアムズとの契約を買い取る形でフェラーリ入りが決まりました。
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Tyrrell 019

<1991年シーズン(全16戦)>
マシン:020  エンジン:ホンダ
勝利数:0勝(最高位2位)  コンストラクターズ:6位
ドライバー:ステファノ・モデナ(8位)、中嶋悟(15位)

アレジに代わってブラバムからモデナが加入。
ブラウンがメインスポンサーとなり、前年のチャンピオンエンジンであるホンダV10を獲得しましたが、フォードV8よりも重いホンダV10を搭載したことでマシンバランスが崩れ、期待されたほどの結果は残せませんでした。
中嶋が引退し、ホンダエンジンの供給とブラウンのスポンサー契約はわずか1年で終了しました。
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Tyrrell 020
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Tyrrell 020

<1992年シーズン(全16戦)>
マシン:020B  エンジン:イルモア
勝利数:0勝(最高位4位)  コンストラクターズ:6位
ドライバー:アンドレア・デ・チェザリス(9位)、オリビエ・グルイヤール(24位)

中嶋が引退、モデナがジョーダンに移籍し、チェザリスとグルイヤールが加入。
資金難から前年型にイルモアV10エンジンを搭載しただけのマシンでしたが、ホンダV10より小型・軽量なエンジンのお陰でマシンバランスは改善。
しかし、信頼性が低かったこともあってグルイヤールはリタイア12回でノーポイント、チェザリスも4度の入賞に留まりました。

<1993年シーズン(全16戦)>
マシン:020C,021  エンジン:ヤマハ
勝利数:0勝(最高位10位)  コンストラクターズ:-
ドライバー:アンドレア・デ・チェザリス(27位)、片山右京(28位)

グルイヤールに代わってラルースから右京が加入。
ヤマハエンジンを獲得し、日本たばこ産業(CABIN)がスポンサーとなったことで資金面は改善されたものの、ハイテク全盛期には十分ではありませんでした。
前半戦は3シーズン目となる020Cで戦い、シーズン途中から投入した新車021も失敗、最高位10位でチーム史上初のノーポイントに終わりました。(コンストラクターとしては終盤3戦のみの参戦だった70年、全ポイント剥奪となった84年は除く。)

<1994年シーズン(全16戦)>
マシン:022  エンジン:ヤマハ
勝利数:0勝(最高位3位)  コンストラクターズ:7位
ドライバー:マーク・ブランデル(12位)、片山右京(17位)

チェザリスに代わってブランデルが加入。
開幕戦ブラジルGPで右京が5位入賞で初ポイントを獲得すると、第5戦スペインGPでブランデルが3位表彰台を獲得、ヤマハエンジン初の表彰台となりました。

<1995年シーズン(全17戦)>
マシン:023  エンジン:ヤマハ
勝利数:0勝(最高位5位)  コンストラクターズ:9位
ドライバー:ミカ・サロ(15位)、片山右京

ブランデルがリジェへ移籍し、サロが加入。
タイトルスポンサーにノキアを迎え、さらなる躍進が期待されたシーズンでしたが、開幕から投入された新車023が失敗に終わり、サロの入賞3回のみと再び低迷、右京はノーポイントでした。
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Tyrrell 023

<1996年シーズン(全16戦)>
マシン:024  エンジン:ヤマハ
勝利数:0勝(最高位5位)  コンストラクターズ:8位
ドライバー:ミカ・サロ(13位)、片山右京

ノキアがわずか1年でタイトルスポンサーを降り、再び資金難に陥ります。
サロが3度の入賞を果たしたものの、右京は今季もノーポイントに終わり、ミナルディへ移籍することになりました。
[1/64] サークルKサンクス京商
Tyrrell 024

<1997年シーズン(全17戦)>
マシン:025  エンジン:フォード
勝利数:0勝(最高位5位)  コンストラクターズ:10位
ドライバー:ミカ・サロ(17位)、ヨス・フェルスタッペン

右京に代わってアロウズからフェルスタッペンが加入。
信頼性の低かったヤマハV10からパワー面で劣るフォードV8に変更、中嶋企画と提携し、高木虎之介がテストドライバーに就任しました。
第5戦モナコGPでサロが5位入賞を果たしますが、入賞はこの1回に留まり、結果的にチーム最後のポイント獲得となりました。

<1998年シーズン(全16戦)>
マシン:026  エンジン:フォード
勝利数:0勝(最高位8位)  コンストラクターズ:11位
ドライバー:リカルド・ロセット(20位)、高木虎之介(21位)

開幕前にブリティッシュ・アメリカン・タバコへの売却が発表され、今季はティレルとして参戦する最後のシーズンとなりました。
テストドライバーから昇格した虎之介がデビューし、チームメイトにはスポンサーマネーを持ち込んだロセットを起用。
ケン・ティレルはフェルスタッペンが起用されなかったことに激怒してチームを離脱し、主要スタッフも相次いで離脱、資金不足やXウイングの禁止等もあって結果を残せず、最後のシーズンをノーポイントで終えました。
翌年からは参戦権を引き継いだB.A.R.に移行、ケン・ティレルが設立したチームは消滅しました。

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